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| だる満と云う名の謂れ1 「母の一大決心」 2004.12.30 |
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南禅寺御用達の石材業をやっていた父、恒吉郎は、地元では指折りの土地持ちであった。父は庭師でもあったが、かなりの風流人で、お茶人さんでもあった。 あの頃、父は常に南禅寺の慈氏院(通称 だるま堂)に出入りしていた。ここには、管長になられるお方が老師をしながら、お住居されるお寺であったと思う。そこに柴山寒松老師と呼ばれる素晴らしいお方がおられた。父はその老師さんを特別に尊敬しており、そしてぞっこんであった。管長になられた後も、お忍びで我が家に来てくださり、私も大変ご慈愛をいただいたものだ。 終戦直後の何もなかった頃も、父は私たちの生活のことより、だるま堂に入り浸って、雲水さんを相手に、作庭を楽しんでいた。また、生活に苦しかった大住さんといお公家さんを寺に呼び、茶の湯の先生として、生徒も集め、茶の道を楽しんでいた、父は、特にかわいがっていた私の妹にここで茶道を習わせた。だが、いくら土地持ちといえども、現世離れの父。生活の大変さを感じていた母は、六人の子どもを育てるために一大決心をして、今のこのだる満を開業した。 (つづく) by 佐脇 好國 |
| だる満と云う名の謂れ2 「だる満」の名付け親 2005.2.4 |
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この「だる満」の名は、父が大好きなだるま堂の、なんぼこけても起き上がるだるまさんが由来。 だる満の文字は、私の名を好國と名づけてくれた人が縁起の良い文字を合わせて、店を「だ(変体仮名)る満」と命名してくださった。余談に、私のばか正直な癖は、この好國と云う文字からも来ているようで、そんなことをチラッと聞いたような気がする。 後々、私の大好きな有名な日本画家アーチスト秋野不矩様が「だるま食堂って安っぽい呼び名ね」と云われ、私が即、「じゃあ、『だるまん』ならいかが?」と少し気どって云ってしまった。 その時、秋野画伯は「それならいいわね」と云われ、それからは、命名された字を生かし、そのまんま「だるまん」と読んだ。 この「だ(変体仮名) る満」を良く見ると、「多」の変体仮名に濁点を付けて「だ」と読み、「る」は平仮名で、「満」は楷書なのです。 これらの文字を何とかうまく調和させて、カッコイイ看板文字にならないか…と思い、この店を建て替える時、必死の思いで、私を可愛がってくださっていたある人にお願いしてしまった。 (つづく) |
| だる満と云う名の謂れ3 ご縁の看板が教えてくれたこと 2005.4.20 |
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私や私の父に良くして下さっていた方々とのご縁と、私のとっさのひらめきで「だ(旧字体) る満」と店が命名されたものの、看板文字にするには珍しすぎて、考えた挙句、私が以前から可愛がって頂いていた立木山の法上様に「何とかならないか」と、看板文字の製作をお願いしてしまった。 「あんまり、つぶしたら読みづらいから適度なのを…」と、無理散々申し上げて、法上さまも大変お困りの様だったが、飄々とした良いお人柄で、もう九十歳に近いお年なのに、それからしばらくして「どうしても出来ないが、この習作で勘弁してくれるか」と、何枚もの習作と、御自分の感じられた時に書かれた大切な墨跡とともに丸めて手渡ししてくださった。私はその時、とんでもないことをお願いしていた申し訳なさと嬉しさにただただ手を合わした。 このご縁も、思えば父が立木山の総代をさせていただいていたお陰のことだった。そういえば私も、正月には立木山の受付でお手伝いをさせてもらい楽しんだのを覚えている。
(おわり) |
| 白川のおばちゃんの思い出話 2003.8.20 |
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旬な味にこだわり続ける秘密 お盆を迎えるとき、必ず強烈に思い出してしまう人がいる。それは白川のおばちゃん。実は親父のお姉さんで、名前は佐脇キク。 一度お嫁に行き、一人だけ娘を産んで実家に帰り、父が亡くなるまで父の面倒を見てくれた人。 白川のおばちゃんは京は北白川の花売り女をやっていた。頭にはいつも洗いざらしの手ぬぐいを被り、白川女独特の腰巻き姿。これがかっこよかったんだよね。 でも本当は男勝りで頑固者。白川のおばちゃんは一人住まいで、畑では花と野菜を作って自給自足の生活をしていた。死ぬまで人に世話をかけず、82歳の昭和48年12月31日、大雪の中を一人荷車引っ張って、一日中花を配って…。 正月の二日、いつものように「おばちゃ〜ん」と顔を見に行ったら、土間の七厘に顔伏せて、固くなっていた。 このときほど、私は自分のことを責めたことはない。 実は「おばちゃん、僕、荷車押すわ」と約束していたのだ。 そして突然の大雪、まさかこんな大雪の日まで花を売りに行くなんて…。 だけど白川のおばちゃんは「おれの作った花を皆待っとる」と大雪の中を出掛けて行ったらしい。 私は亡くなったおばちゃんの姿にすがってワンワン泣きじゃくった。そして泣きながら思った。 「そりゃぁ、そうだよね。みんなまっとるよ」と。 白川のおばちゃんが花を束ねる姿は、いつも真剣そのものだった。 左手に花の束を持ち、右手で花を添えて束ねていく姿には横から声を掛けられなかった。 いつも花売りに向かう仕事の姿勢は、白川のおばちゃんの歓びであり、生きがいでもあり、おばちゃんそのものだった。 そんなおばちゃんが私は大好きで、白川の家にはよく遊びに行った。そして今でもある野菜を見ると思い出すことがある。それはトマト。 「好國、おいで〜」と呼ばれて畑へ行くと、いっぱいなったトマトの中から最高の「これ!」というやつを見つけてもぎ取り、キュッ、キュッと拭いて「好國、食い!」と手渡してくれる。 初めは「え〜っ」と思ったけど、一口食べてみると何もかも忘れてしまうような美味しさ。 「うまい!」というと、満足そうな顔で「うまいやろ」と云う。その得意げな顔が私は大好きだった。 でもね、ほんまはね、その畑には大きな肥壷があるんだよ。近所の家から取らしてもらった肥(うんことおしっこ)、それを天秤棒で担ぎ 「ヨイショ、ヨイショ」と肥桶にためてねかせておいたやつを水で薄めて、野菜にやって、それがあんなに美味しいトマトになっていたんだよ。 これは誰も知らない内緒の話だけど、白川のおばちゃんは人のいないときは、肥桶に男のように立ったまましょんべんするんだよ。 白川のおばちゃんの思い出話をするとき、いつの間にか私は当時のいたずら坊主に帰ってしまって、「プッ」と吹き出してしまう。 振り返ってみれば、“なすび”も“キュウリ”も“ネギ”も“カボチャ”も“芋”も“豆”も、本物の美味しさを白川のおばちゃんの畑の中で私は覚えていった。 現在の「だる満」の“おばん菜”で、あくまで素材を生かした本物の味にこだわり続けているのは、このときの味が忘れられないから。 どんでん返せば仏さま 白川のおばちゃんの思い出話をもう一つ。 「好國、楽してうまいこと儲けてやろうと思ってはだめだぞ。頭だけ使うて儲けても死ぬとき心臓がまだ元気だとしんどいぞ。頭も体も使うて良いことをしてこの世を全うすると、人にも迷惑かけずに、往くときはコロッと往けるぞ」。こんなことを伝えてくれた。 私の将来を予感しながら「株はやめとけよ」ということだったのか、「理屈ばかりを言わずどんどん何でもやってみろ」ということだったのか、白川のおばちゃんの人生にとってそのことはとても大切なことだったのか…。 これも今となっては、私にとって忘れられない言葉となっている。 話は変わるけど、白川のおばちゃんは祭りが大好きだった。 「わしが行かんと神輿があがらん!」と、長い神社の石段を先頭きって「ヨ〜サ〜ヨ〜サ〜」とやる。それも凄い勢いで。 神輿が納まるのを見届けると急いで家に帰ってくる。そして、飼っていた鶏をしめて、酒をよくきかせた“すきやき”を皆に振る舞ってくれる。これがまた旨い。 白川のおばちゃんはいつも世話するばかりで一緒に食べようとはしない。いつも土間に居てみんなを楽しませる。 これが昔の白川女の真骨頂なんだ。 この日は白川のおばちゃん得意の鯖ずしが出た。京の錦で最高の鯖を仕入れて、昆布のよく巻いた、こぶ〜い鯖寿司。青魚の嫌いな私の弟のために、特別に白身ばかりのものもこさえてある。 そんな白川のおばちゃんはいつもこう云っていた。「ご先祖からあずかった土地は大事に守らねばならぬ」と。私の父は長男だったので、多く土地を継いだけれど時代が時代だったのでほとんど手放してしまった。それを白川のおばちゃんは嘆いていた。 白川のおばちゃんは自分の持分だった土地はすべて私へ、という遺言状まで書いて残し、私へもそのことをとくとくと言い聞かせていたが、私はそうもできずに半分は白川のおばちゃんの残した娘さんに渡した。 今、白川のおばちゃんは私のお仏壇におさまり、まだ見ぬお浄土の世界から私たちを見守って下さっている。 私は毎朝阿弥陀さまに、この生かされている「いのち」に感謝し、亡き親や白川のおばちゃんに、そして色々なご縁に感謝の念を送っている。そして早朝の仕込みのとき、今日も自然の食材に慈しみを感じつつ、厨房のおばちゃんたちや、妻と共に 「ありがとう、ありがとう、ありがとう」と感謝をしながら料理をつくり、うどん作りに励める自分をありがたく思う。 これまでの人生、いろんな事や人にめぐり合ってきたが、白川のおばちゃんの思い出を語りながら、白川のおばちゃんが云いたかったことをぎゅっと凝縮すると、つまるところこういうことか。 「悪い奴もどんでん返せば仏さま。私は人生のよき縁に導かれて、これからも、どんでんどんでん」 by 佐脇 好國 |