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猫の額ほどのだる満の庭の物語 2005.11.20
だる満の庭は猫の額ほどの広さですが、木も草花も虫も自然に共生していておもしろい。

今年のエゴの木は春からズ〜っとしおらしい白い花を秋まで咲かせ続け、実は鈴なり。

by 佐脇 好國


それを見上げて喜んでおりましたが、実は幹の皮下を虫が食べていて、枯れてきた枝が必死に頑張る姿でした。
健気なことに、その虫食いのすぐ下かたら一本の枝が生まれ、ぐんぐん上に向かって伸び、最上段を越していますが、その早さ、勢いの良さは驚きです。私も削りたい気持ち。
今一番美しいのは紫式部ですが、もみじの紅葉は12月に入りそう…。ヤヤ!一人生えの小さな紅葉が顔を赤らめて「いらっちゃいませ!」なんて。
だる満と云う名の謂れ3 ご縁の看板が教えてくれたこと 2005.4.20
 私や私の父に良くして下さっていた方々とのご縁と、私のとっさのひらめきで「だ(旧字体) る満」と店が命名されたものの、看板文字にするには珍しすぎて、考えた挙句、私が以前から可愛がって頂いていた立木山の法上様に「何とかならないか」と、看板文字の製作をお願いしてしまった。

 「あんまり、つぶしたら読みづらいから適度なのを…」と、無理散々申し上げて、法上さまも大変お困りの様だったが、飄々とした良いお人柄で、もう九十歳に近いお年なのに、それからしばらくして「どうしても出来ないが、この習作で勘弁してくれるか」と、何枚もの習作と、御自分の感じられた時に書かれた大切な墨跡とともに丸めて手渡ししてくださった。私はその時、とんでもないことをお願いしていた申し訳なさと嬉しさにただただ手を合わした。

 このご縁も、思えば父が立木山の総代をさせていただいていたお陰のことだった。そういえば私も、正月には立木山の受付でお手伝いをさせてもらい楽しんだのを覚えている。

 この看板を上げたときから、自分の心の中にあった「儲けりゃいい」が無くなった。上品に、恥ずかしくない商売をして、どこまでも美味しさを追求し、喜んでもらえる店に、と思い続けるようになった。

(おわり)


by 佐脇 好國


だる満と云う名の謂れ2 「だる満」の名付け親 2005.2.4
この「だる満」の名は、父が大好きなだるま堂の、なんぼこけても起き上がるだるまさんが由来。

 だる満の文字は、私の名を好國と名づけてくれた人が縁起の良い文字を合わせて、店を「だ(変体仮名)る満」と命名してくださった。余談に、私のばか正直な癖は、この好國と云う文字からも来ているようで、そんなことをチラッと聞いたような気がする。

 後々、私の大好きな有名な日本画家アーチスト秋野不矩様が「だるま食堂って安っぽい呼び名ね」と云われ、私が即、「じゃあ、『だるまん』ならいかが?」と少し気どって云ってしまった。

 その時、秋野画伯は「それならいいわね」と云われ、それからは、命名された字を生かし、そのまんま「だるまん」と読んだ。

 この「だ(変体仮名) る満」を良く見ると、「多」の変体仮名に濁点を付けて「だ」と読み、「る」は平仮名で、「満」は楷書なのです。

 これらの文字を何とかうまく調和させて、カッコイイ看板文字にならないか…と思い、この店を建て替える時、必死の思いで、私を可愛がってくださっていたある人にお願いしてしまった。

(つづく)


by 佐脇 好國


だる満と云う名の謂れ1 「母の一大決心」 2004.12.30
南禅寺御用達の石材業をやっていた父、恒吉郎は、地元では指折りの土地持ちであった。父は庭師でもあったが、かなりの風流人で、お茶人さんでもあった。

あの頃、父は常に南禅寺の慈氏院(通称 だるま堂)に出入りしていた。ここには、管長になられるお方が老師をしながら、お住居されるお寺であったと思う。そこに柴山寒松老師と呼ばれる素晴らしいお方がおられた。父はその老師さんを特別に尊敬しており、そしてぞっこんであった。管長になられた後も、お忍びで我が家に来てくださり、私も大変ご慈愛をいただいたものだ。

終戦直後の何もなかった頃も、父は私たちの生活のことより、だるま堂に入り浸って、雲水さんを相手に、作庭を楽しんでいた。また、生活に苦しかった大住さんといお公家さんを寺に呼び、茶の湯の先生として、生徒も集め、茶の道を楽しんでいた、父は、特にかわいがっていた私の妹にここで茶道を習わせた。だが、いくら土地持ちといえども、現世離れの父。生活の大変さを感じていた母は、六人の子どもを育てるために一大決心をして、今のこのだる満を開業した。(つづく)


by 佐脇 好國


山菜摘み 2004.4.30
4月26日、チーフと共に親戚の典ちゃんに案内してもらいながら、大原から朽木、最高の自然美の中を美浜へと山谷巡り。

 まだ少し雪の残っていた所を川へ降り、ジャブジャブと川を渡ると、柔らかにクルッと巻いた“こごみ”がいっぱい。

 「今日が最高のタイミングだぞ!」と喜び。目が輝いた。気が付いたら「ありがとう、ありがとう」と自然に口ずさみながら摘んでいた。

 一日で大きく成長してしまうぐらいの精力を潜めた“こごみ”。「よほどタイミングが合わないと、このようなふっくらと大きく初(うぶ)なものはみつからない」と、“山菜暦”50年の典ちゃんは興奮気味。

 美浜の山奥では、これ以上車の入れないところまで来て、眠たがるチーフを車に残し、細い谷をどんどん奥へ分け入り、やっとみつけたトゲトゲの大きな“たらの木”。谷から立派に立っていた。典ちゃんと私は、木に振り回されながらも、なんとか伸び過ぎの“たらの芽”も収穫できた。しばらく二人でいろんな谷をあっちこっち。魚釣りの大好きな典ちゃんは小さな谷で「お!あまごが居た、大きいぞ!」そして、「見とれよ…」と谷間の岩陰に慎重に手を入れ…、「アッ、逃げた」。

そうかと思うと、根の大きい草をそーっと抜き、「これが山葵(わさび)や。谷でサッサッと洗っとくといい」こんなことをいいながら、また面白いものを目敏く見付けて「アッ!これ、鹿の足跡やで!」と実に楽しく、気の動きの活発なこと。親しげに“典ちゃん”と呼ばせてもらっているが、実は70才を楽に越した、お元気で根っからの好きもの。私達も、知らぬ間に山歩きに引っ張り込まれて、そうでなくとも、私も好きなほうだから目を輝かして、昼食の時間も忘れて、やりたいことが次から次へと出てくる。集中して、時間を忘れて無心になっている。なんて楽しいことか。

山から帰ってきても、山菜の元気な間に美味しく、食べやすく、料理しやすく、なるべく新鮮なうちに…と忙しい。そしてこの香り「おー、この濃(コク)だ」と、楽しみながら調理する。

 いろんなことに興味を持って忙しい、ということの楽しさと喜びをいっぱい感じ、そしてみんなで共有できるという、さらなる喜びが今、だる満のメニューに登場しています。


by 佐脇 好國


おせち 2004.1.26
 今年の初詣の人出は例年を遥かに上回ったようで、激動の年を感じ、身が引き締まる思いです。

 だる満はおかげさまで、平安神宮からのお帰りの方々と共に深夜の晦日そば(というより年が明けての初そば)と全国から集めた地酒で、除夜の鐘から夜明けまでにぎやかに楽しく営業させていただきました。

 元日からは平常どおり「おばんざいバイキング」も出させていただき、こちらも大賑わいで、おかげさまのフル回転で皆働かせてもらってありがとうございました。

 そんなお正月のチョットした時間を見つけ、興英チーフと私は氏神様の岡崎神社の初詣に揃って出かけ、感謝の意を捧げて安堵し、やっとお正月を迎えたような気になりました。そして、その足で本家に行き、孫たちがお年玉をもらって喜ぶ姿を見ました。

 まずは、お仏壇に手を合わせ、新年の挨拶を交わすと、兄貴が喜んで「今年はうまいことできたぞ」と、妻や娘をねぎらいながら少しだけ残っていた「おせち」を出してくれました。 店を思う、気が少々急ぐが嬉しい。久方ぶり。ああ懐かしい味。これだ!これだ!母を思い出し、なぜかホッとする味。なんとも言えない温かい味。

 我が家では昔から「おせち」の「おなます」は、鏡餅の上に、昆布と共に飾る串柿や、白みそなどで味を仕立てていた。あっさりというより、コクのある味に仕立てる。昔からこれを食べているから、「これでないとおなますとは言えない」気持ちになるのです。

 その家の「おせち」の味が主人の顔ともなるので、主婦たちは伝統の味を守りながらも自慢の味を出すのに真剣です。兄は嫁さんのそんな姿を目を細めて喜んでいるらしく、「この黒豆は、どや」と続けて出してくる。

 上品ですっきり。黒豆本来の味がして姿もいい。「うまい」と私が答えると、「そやろ」と兄の得意そうな顔がほころびる。

 実はこの黒豆、兄の一人娘である淳子さんが、ある有名料亭の味を元に、失敗に失敗を重ねて研究したしろもの。ただ伝統を守るだけじゃなく、常にその上の美味しさ求めて腕を磨き続けている姿は素晴らしい。

 そんなこんなで、つかの間のだんらんを楽しんでいると電話が入り、二人ともだる満へ飛んで帰りました。

 お客様に「お帰りなさいませ!いってらっしゃいませ」と声をかけさせていただいていたら、ふっと、「だる満のスタッフこそ、そんな味を追求する道を生き甲斐と、瞬時を惜しみ、若きも年寄りも真剣に取り組んでいるんだ」と気が付きました。

 研究に研究を重ねて、新しい味が出来ると、それはそれは大きな喜びとなり、生きる活力となり、自信となって、皆で胸を張って「お帰りなさいませ」と嬉々としてお客様をお迎えできる喜びを味わっているのです。

 私も、そばつゆを今なおどんどん進化させ、美味しさを追求し。その面白さにはしゃいでいます。
こんなだる満に、どうぞ今年もご指導ご鞭撻をよろしくお願い申し上げます。

by 佐脇 好國

疎水 2003.11.20
  最近ボ〜ッと“だる満”の二階の窓から、目の前を静かに流れ続けていく疎水を眺めているときがあります。すると次第に時はさかのぼって、懐かしき昔の光景が、まるで目の前に映し出されるように現れてきます。

 “だる満”というお店を開く前、父が石材業を営んでいた頃。この疎水べりには、石置き場や仕事小屋、そして馬小屋が並んでいました。

 当時、疎水は立派な運河で、滋賀県の大津から重い石や野菜などを乗せた舟が、インクラインを使って下ってきていました。また、この疎水は琵琶湖の美しい水を京都へ一番に運んでくれる有難い「いのち」のパイプライン。そんな疎水で、私達は腕白にも“キャキャ”とはしゃいで泳いだものでした。

 ある日、誰かが大声で叫んだ。「あっ!馬が逃げたぞ!」パカパカパカ、走る走る、すごいスピードであたりは大騒ぎになりました。それでも一回りした我が家の馬は、何食わぬ顔で帰ってきて清々した顔で「ヒヒーン」と嘶きました。私は思わず走って行き、ほおずりして撫でてやりました。「もう落ち着いたか?ええか?…」馬の毛はふさふさしていて、とても美しい姿の馬でした。

 この馬は実は競走馬でしたが、父はなぜだか荷馬車用に使っていました。どういう意味だったのか今となっては分かりませんが、いつも重い荷物を引いてストレスがたまっていたのだと思います。

 馬小屋の横には大きな石がたくさん置かれていて、働く人たちの仕事小屋もありました。そこでは真っ黒に日焼けし、黒光りした上半身に汗玉キラキラさせて、手を大きく振り上げて「カ〜ン、カ〜ン」とノミを打つ職人さんの勇姿と、青空の映った疎水が見事な絵になって、そんな風景が、これまた感動ものでした。

 私は、そんな風景を見続けるうちに、次第に絵心が揺さぶられていきました。それは小学3年生の時だったと思いますが、「職人さんと疎水」の絵がユネスコで最優秀賞に選ばれて、それは嬉しかった。この時からでしょうか、私が絵の世界に興味を抱くようになったのは…。

 話は変わりますが、この頃は木炭自動車がたまに通るぐらいであまり交通量も無く、この疎水べりの道でも野球をして楽しんだものです。重りの入った衣切れを巻き、その上からたこ糸でぐるぐる巻きにしたボールでしたが、打つと“カ〜ン”と音がしました。

 私は5歳下の妹を乳母車に乗せて子守のつもり。それでもやっぱり野球の仲間に入れて欲しく、「ちょっとだけ」と言いながら打たせてもらったまではいいのですが、やんちゃな妹はたまらなく退屈で、じっとしていることはまずありません。乳母車をうまく乗り越えてチョコチョコと歩き出し、なんと道路に掘ってあった畳一畳あまりの防空壕の深い穴に溜まった水の中に落ちてしまったのです。

 もう、野球どころじゃない。私はまだ泳ぐことができず、「どうしよう、どうしよう」とただうろたえて泣くばかり。周りのみんながすぐに妹を助けてくれましたが、それを知った父の気はおさまりません。私のおなかにロープをくくりつけ、お仕置きにと、疎水へ放り込まれました。このときの父は恐かった〜。

 そんな私の姿を横目で見ながら近所の仲間は、これ見よがしに疎水をスイスイ。みんなカッパばっかりでした。このとき私は小学1年生ぐらいだったと思いますが、この妹の事件がショックで、いつまでたってもなかなか泳ぐことができませんでした。

 だけど、疎水の水は美しかったので、魚釣りはよくやりました。「手長エビ」や「ウナギ」、「ギギ」といって背びれに針を持つ魚や、「ヒガイ」に「フナ」、「コイ」そして「ボテ」に「ハエ」などがたくさんいました。仲間たちは潜ってとるのがムチャクチャ楽しそうで、「お〜い、よしくに〜、はよ〜もぐれや〜」と誘われたけど、私はいつも首を横に振っていました。

 そんな私を見かねた近所の先輩たちが意を決して「疎水のカッパが泳げずにどうするか!」と、ある日“だる満”の斜め前にある橋の欄干の上から、私の手と足を持って「ぶら〜ん、ぶら〜ん、ソ〜レ〜」と水の中に放り込みました。皆後を追って欄干から飛び込み、立ち泳ぎで見守ってくれていたそうだけど、私はそんなことは知らず、必死で頭を時々水面に上げながらも、バタバタと犬かきで何とか岸までたどり着きました。

 このことがとんでもなく嫌でたまらなく、 すぐに親に頼み込んで、武徳会(今でいうスイミングスクール)へ行かせてもらいました。そして、なんとかカッパの仲間入りができたということです。

 ひょっとすると、今でもこのときとよく似た経験を何度も何度も繰り返しながらここまで成長させていただいたような気がします。その時はまったくわからず、嫌でたまらんことでも、今となってはよきご縁として有難く受け取ることができるのです。

 今日も目の前の疎水を親子鴨が仲良く泳いでいくほほえましい姿は、あの当時とまったく変わりません。疎水と共に生きてきた人生ですが、私がこの世を去っても何事も無かったように、疎水の水は流れ続けていくのでしょう。いつまでも、いつまでも、多くの人たちの思い出と共にね。

by 佐脇 好國

by 佐脇 好國

白川のおばちゃんの思い出話 2003.8.20
 
旬な味にこだわり続ける秘密

 お盆を迎えるとき、必ず強烈に思い出してしまう人がいる。それは白川のおばちゃん。実は親父のお姉さんで、名前は佐脇キク。
 一度お嫁に行き、一人だけ娘を産んで実家に帰り、父が亡くなるまで父の面倒を見てくれた人。
 白川のおばちゃんは京は北白川の花売り女をやっていた。頭にはいつも洗いざらしの手ぬぐいを被り、白川女独特の腰巻き姿。これがかっこよかったんだよね。
 でも本当は男勝りで頑固者。白川のおばちゃんは一人住まいで、畑では花と野菜を作って自給自足の生活をしていた。死ぬまで人に世話をかけず、82歳の昭和48年12月31日、大雪の中を一人荷車引っ張って、一日中花を配って…。
 正月の二日、いつものように「おばちゃ〜ん」と顔を見に行ったら、土間の七厘に顔伏せて、固くなっていた。
 このときほど、私は自分のことを責めたことはない。実は「おばちゃん、僕、荷車押すわ」と約束していたのだ。そして突然の大雪、まさかこんな大雪の日まで花を売りに行くなんて…。
 だけど白川のおばちゃんは「おれの作った花を皆待っとる」と大雪の中を出掛けて行ったらしい。私は亡くなったおばちゃんの姿にすがってワンワン泣きじゃくった。そして泣きながら思った。「そりゃぁ、そうだよね。みんなまっとるよ」と。
 白川のおばちゃんが花を束ねる姿は、いつも真剣そのものだった。左手に花の束を持ち、右手で花を添えて束ねていく姿には横から声を掛けられなかった。
 いつも花売りに向かう仕事の姿勢は、白川のおばちゃんの歓びであり、生きがいでもあり、おばちゃんそのものだった。
 そんなおばちゃんが私は大好きで、白川の家にはよく遊びに行った。そして今でもある野菜を見ると思い出すことがある。それはトマト。
 「好國、おいで〜」と呼ばれて畑へ行くと、いっぱいなったトマトの中から最高の「これ!」というやつを見つけてもぎ取り、キュッ、キュッと拭いて「好國、食い!」と手渡してくれる。
 初めは「え〜っ」と思ったけど、一口食べてみると何もかも忘れてしまうような美味しさ。
 「うまい!」というと、満足そうな顔で「うまいやろ」と云う。その得意げな顔が私は大好きだった。
 でもね、ほんまはね、その畑には大きな肥壷があるんだよ。近所の家から取らしてもらった肥(うんことおしっこ)、それを天秤棒で担ぎ、「ヨイショ、ヨイショ」と肥桶にためてねかせておいたやつを水で薄めて、野菜にやって、それがあんなに美味しいトマトになっていたんだよ。
 これは誰も知らない内緒の話だけど、白川のおばちゃんは人のいないときは、肥桶に男のように立ったまましょんべんするんだよ。
 白川のおばちゃんの思い出話をするとき、いつの間にか私は当時のいたずら坊主に帰ってしまって、「プッ」と吹き出してしまう。
 振り返ってみれば、“なすび”も“キュウリ”も“ネギ”も“カボチャ”も“芋”も“豆”も、本物の美味しさを白川のおばちゃんの畑の中で私は覚えていった。
 現在の「だる満」の“おばん菜”で、あくまで素材を生かした本物の味にこだわり続けているのは、このときの味が忘れられないから。

どんでん返せば仏さま

 白川のおばちゃんの思い出話をもう一つ。

 ある冬の日、白川のおばちゃんは番茶を煎じていた。薪を炊き、その正面に自分で編んだ藁椅子に私を座らせていた。そして白川のおばちゃんはいい香りの中でこう語りだした。
 「好國、楽してうまいこと儲けてやろうと思ってはだめだぞ。頭だけ使うて儲けても死ぬとき心臓がまだ元気だとしんどいぞ。頭も体も使うて良いことをしてこの世を全うすると、人にも迷惑かけずに、往くときはコロッと往けるぞ」。こんなことを伝えてくれた。私の将来を予感しながら「株はやめとけよ」ということだったのか、「理屈ばかりを言わずどんどん何でもやってみろ」ということだったのか、白川のおばちゃんの人生にとってそのことはとても大切なことだったのか…。これも今となっては、私にとって忘れられない言葉となっている。
 話は変わるけど、白川のおばちゃんは祭りが大好きだった。「わしが行かんと神輿があがらん!」と、長い神社の石段を先頭きって「ヨ〜サ〜ヨ〜サ〜」とやる。それも凄い勢いで。
 神輿が納まるのを見届けると急いで家に帰ってくる。そして、飼っていた鶏をしめて、酒をよくきかせた“すきやき”を皆に振る舞ってくれる。これがまた旨い。
 白川のおばちゃんはいつも世話するばかりで一緒に食べようとはしない。いつも土間に居てみんなを楽しませる。これが昔の白川女の真骨頂なんだ。
 この日は白川のおばちゃん得意の鯖ずしが出た。京の錦で最高の鯖を仕入れて、昆布のよく巻いた、こぶ〜い鯖寿司。青魚の嫌いな私の弟のために、特別に白身ばかりのものもこさえてある。
 そんな白川のおばちゃんはいつもこう云っていた。「ご先祖からあずかった土地は大事に守らねばならぬ」と。私の父は長男だったので、多く土地を継いだけれど時代が時代だったのでほとんど手放してしまった。それを白川のおばちゃんは嘆いていた。
 白川のおばちゃんは自分の持分だった土地はすべて私へ、という遺言状まで書いて残し、私へもそのことをとくとくと言い聞かせていたが、私はそうもできずに半分は白川のおばちゃんの残した娘さんに渡した。
 今、白川のおばちゃんは私のお仏壇におさまり、まだ見ぬお浄土の世界から私たちを見守って下さっている。私は毎朝阿弥陀さまに、この生かされている「いのち」に感謝し、亡き親や、白川のおばちゃんに、そして色々なご縁に感謝の念を送っている。
 そして早朝の仕込みのとき、今日も自然の食材に慈しみを感じつつ、厨房のおばちゃんたちや、妻と共に「ありがとう、ありがとう、ありがとう」と感謝をしながら料理をつくり、うどん作りに励める自分をありがたく思う。
 これまでの人生、いろんな事や人にめぐり合ってきたが、白川のおばちゃんの思い出を語りながら、白川のおばちゃんが云いたかったことをぎゅっと凝縮すると、つまるところこういうことか。
 「悪い奴もどんでん返せば仏さま。私は人生のよき縁に導かれて、これからも、どんでんどんでん」

by 佐脇 好國